神戸という遠いところから、一番近くで見てきた10年間

神戸大学大船渡支援プロジェクトインタビュー

インタビュー記事では3人の方にインタビューを行いました。それぞれの立場から、東日本大震災について当時のこと、復興、これからのことなどをお話ししてくださいました。10年間を、遠い地域から一番近くで見てきた方。10年の間に「子ども」から「大人」になって思うこと。などなど。自分の立場と重ねて読んでみてください。

他のインタビュー記事は こちら からご覧いただけます。

神戸大学の学生を中心として結成された「神戸大学大船渡支援プロジェクト」。

震災直後の2011年4月から現在まで、岩手県大船渡市赤崎町にて復興支援の活動をしています。私がこの方々に出会ったのは中学2年生の頃でした。

その頃からお世話になっているお二方に、これまでの活動、10年経って思うこと、これからのこと、など10年の支援活動を振り返って様々なお話をお伺いしました。

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地域のつながりの核「復興市」ができるまで

私は中学生の頃はよく復興隊に顔を出していましたが、高校生になってからは色々言い訳をしてあまり行かなくなっていました。その間に不定期イベントだった「赤崎復興市」(以下復興市)がいつの間にか年に3〜4回ほど行う定期イベントになっていました。それと同時になんだか雰囲気も変わっていて・・・。

私が行かなくなってしまった間のことを聞いてみました。

(長田)『復興市の1回目は2013年に行った「だべこ祭り」の直後に大きな復興市を開催しています。それが第一回です。』

「だべこ祭り」については後ほど詳しく書きますので、ここでの説明は割愛させていただきます。

(井口)『僕がきたのがフリーズが本格的に復興市をやり始めたあたりで。』

井口先生は2014年頃からこの支援プロジェクトに参加しています。ここからのインタビューでは神戸大学発達科学部/人間発達環境学研究科の准教授の井口克朗先生にもたくさんお話を伺っています。

特に今回の東日本大震災のような災害で顕在化した地域課題を解決しどのように地域を発展させ人々が住み続けられる地域を実現していくかを研究しています。そのよう面で、災害とまちづくりのお話をたくさんお伺いすることができました。

(井口)『震災が起こり2、3年経つと、具体的にどうすれば地域が復興するか、未来予想図とかインフラの話をすると同時に生活をなんとかしなければいけなくなりますよね。ですから、復興市にはいくつか意図がそれなりには組み込まれているんですよね。』

「復興」とはインフラ整備だけではありません。人々の生活が元どおり、それ以上になり自立して生活できるような産業づくりや地域のつながりづくりを含めたまちづくりについても考えなければいけないのです。

(井口)地域の中で住民の人たちのつながりがないといけません。そういう面でサロン的な役割が復興市にはあります。いろいろな人たちが集まってそこで交流して、みんなバラバラにならないようにする。

そんな機能がどこかに必要だろうということで、復興隊としてそういう取り組みを定期的に行っています。』

復興市の一つの目の役割はサロン的な機能を持たせ「地域のつながり」をつくること(絶やさないこと)です。震災で元の場所で暮らせなくなり今までの地域関係が薄れてしまった方々も多いです。そのような中で郷土作業が生まれれば、また地域の人たちと会う機会も増えます。

地域住民で結成された復興隊と住民の関わり、復興市にくる住民同士の関わり。「復興市」からはそれまで薄れていた地域の関わりが生まれたのです。

(井口)『フリーズ(松岡先生)が特に力を入れていたことがあります。赤崎の人たちが仕事をして収入を得ないと生活になりませんから産業と言いますか、赤崎に特産品があればそういうものも開発していきたかった。自分たちで作ったモノをそこに来る人たちに売って収入になるということを実感してもらうことが当初の目的でした。』

「地域のつながり」はなんとなく想像できていましたが、まさか経済活動の目的があったとは思いもしませんでした。それと共に支援プロジェクトの方々の思いと地域住民とに「ズレ」のようなものも感じました。

(井口)『復興市で使う金券にも経済的な仕組みがあります。6枚綴りだけど、5枚分のお金で買えることや(金券一枚100円の6枚綴りで売られています=600円分)年末に配当金が帰ってくる仕組み。

そういう感じでお得感と言いますか、地域の人たちがモノを作って売ると「得をする」という経済的なインセンティブを持たせています。そうやって復興市を継続的にやっていく「動機」というものを絶やさないような仕組みづくりをやったけど、うまくいったのかな?笑』

支援プロジェクトの方々が「うまくいったのかわからない」と感じているように、私もこの話を聞いていて復興市が赤崎町の一つの経済的な役割を果たしているようには感じませんでした。

最近の復興市ではお金目的というか、住民の方以外の出店者さんも増えています。そのような人たちに比べると住民の方々はお金よりも住民同士のつながりを求めていたり、自分たちの作っているものをおすそ分けするような気持ちで復興市に参加しているように感じていました。

(井口)『モチベーションがあるときは活動が続くんだけれども、継続的にやっていくことを考えると、少しでも生活が楽になるような仕組みがあったほうが長続きするから、経済的な組織として、ある意味地場産業として復興市を育てていこうという思いはあったみたいです。でもお金目当てではない、そういう人たちが参加してくれることは当然嬉しいんだけど、あえてね。』

モチベーションの維持はどんな時でも難しいです。いつまでも頑張れるわけでも楽しくやれるわけでもないですしね。そのような時に産業として成り立っていれば続けていく一つの理由になっていくのかもしれません。そして経済・産業として地域で育てていくことがあまりできなかった復興市は案の定モチベーションの低下による全体的なトーンダウンの方向になっていきました。

(井口)『東日本大震災だけではなく被災地でありがちな話なんですけど、赤崎もそうだけど、震災の直後はみんな家をなくしたり被害を受けたりと条件が一緒なんです。そうすると地域がまとまるんです。一緒に頑張ろうと。そのような中で復興隊もできました。

しかし3~5年くらい経つとどこの被災地に行ってもトーンが落ちてくるのです。みんな疲れてくるんです。被災されてますし、生活も厳しい人もいっぱいいます。そうすると最初は条件が一緒で頑張ろうとまとまっていてもどうしてもトーンダウンしてしまう。復興隊も年4回やっていたけど何回か減らそうとか、そういう話もしたりしていました。』

2016年あたりから復興市もトーンダウンの時期にそのまま入っていったそうです。それでも2019年までは開催数は減らさずやっていました。(2020年は新型コロナウイルスのため開催できず。)

(井口)『恒久的な家(災害公営住宅含め)を確保できる人と、まだ仮設住宅の人。2017年頃からは高台移転。そうやってどんどん条件が違くなってくる。高台に移ったは移ったで住む場所が変わりバラバラになる。

館長とも話しているんだけど、高台に移った中で孤立しがちな人もいたりとか、地域課題があるのにみんなバラバラになってしまう。

2016年〜2017年頃にそういう時期に入っていきました。そのような中で復興市が地域の人たちを繋ぎとめる核として機能すればいいなと思って活動を続けてきました。』

と、現在でも(経済的な役割が感じられない中でも)復興市を続ける理由を井口先生は教えてくださいました。

(長田)『復興市の当初の目的は地場産業を作るということ。もともと赤崎未来予想図にあった「道の駅構想」というのがありました。県道の位置は今とほとんど変わらないんですけど、道の駅を作るという話がありました。

そこで道の駅の運営は誰がするとなった時に住民がします。モノは誰が出すとなった時に住民が出します。

そうなった時にモノがないよね、という話になりそういう意味での地場産業でもありました。そして(道の駅の運営をする上で)「組織」として運営をしていかなければならないから、その練習としての復興市でもあったのかな、と思います。

でも道の駅構想がなくなってしまっているので、というより県道の通り方が変わって道の駅を造られなくなりました。』

「道の駅構想」があったという話を聞き、赤崎町の人が赤崎町で働いて収入を得るという話がスッと入ってきました。そして赤崎未来予想図のことを思い出しました。中学生の頃漁村センター(公民館)に集まって地域の人たちでこれからの赤崎町の未来に希望を膨らませて色んなことを思い描きました。

でも年々そのことは忘れていきましたし、その構想通りに町が作られているのかもわかりませんでした。そんな中、一つの構想である「道の駅」がなくなっていてなんだか現実を突きつけられている気分になりました。

(井口)『地方に行った時とかに道の駅に特産品が売ってあるところがあるでしょ。復興市を将来的にはそのような形にしたかった。あれはかなりの収入源になるんですよ。それで雇用ができたりお金も動き出して地域活性化に繋げているところもあるんです。それを目指して復興市を発展させていきたかったんですね。過去形でいいのかな笑』

(長田)『(道の駅構想は)まあもうないと思います』

(井口)『これがなかなか難しくてね。道の駅って休憩とかに入りやすい場所にあるでしょ。でも県道が変わることで物理的にも難しくなってしまった。それでもめた時期もありました。』

2014年〜2015年あたりでこの道の駅構想の話はなくなり、復興市での産業づくりは遠くなってしまったそうです。復興市がトーンダウンし始めたのもきっとこのあたりで、私が大学生になりまた参加し始めた時に感じたこと雰囲気の変化みたいなものはこれらも関係していたのかなと思いました。

今回の記事では2011年の東日本大震災直後から、被災地に携わり続けている方々のお話の中でも、当時の活動〜2015年頃までの活動についてお伺いしました。

なんとなく流れでできたのかなと思っていた復興市にも当初は経済的な役割を持たせ、復興のその先の地域の発展につなげたいという思いがあったことや、道の駅構想のこと。でも期待と現実の差は大きいことや、地域住民と復興隊とのズレ。その中でのたくさんの葛藤。

この時期というのは、特に復興期の中でも色々なことが渦巻いて発展していく(進んでいく)時期なのかなと思います。大きいまちづくりだけでなく、赤崎町の中でも限定された地区での(町の規模が)小さいまちづくりにおいてもたくさんの苦悩があったということがわかりました。この時期でどう舵を切っていくかがこれからのまちづくりにおいて重要になっていくのだと思います。一方、一度失敗したからといって終わりではないし、次への期待や希望のようなものもお話の中で感じることができました。

次回も引き続き大船渡支援プロジェクトの方々へのインタビューの後半をお届けします。ぜひご覧ください。

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