たくさんの人に生かされて今があるということに気づく

東日本大震災伝承館レポート③-2陸前高田市「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)」

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東日本大震災伝承施設のうち、岩手県にある3つの施設を訪問しました。この記事では、それぞれの施設で、どのような施設か、体験できることなど、実際に訪問し感じたことをレポートとしてお送りします。まだ伝承施設を知らない人も、これから訪問する人もぜひこちらの記事を参考にしてみてください。

また、東日本大震災伝承施設については  こちらの記事  を参考にしてみてください。

今回は前半に引き続き、陸前高田市の「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)についてのレポートです。「ゾーン3教訓を学ぶ」の訪問記からお送りします。陸前高田市や施設前半の訪問記については こちら の記事で紹介しているので併せてご覧ください。

私たちは生かされているということ

「ゾーン3教訓を学ぶ」では、逃げる、助ける、支えるなど、東日本大震災津波の時の人々の行動をひもとくことで、命を守るための教訓を共有しています。

こちらのゾーンは写真撮影をすることはできなかったので文章のみになりますが、訪問して気づいたことが一番あったゾーンでしたので、最後まで御覧いただけると幸いです。

みなさんは、震災の時、命を救うために行動していた方がいることをご存知でしょうか。(頭ではわかっていましたが)私は恥ずかしながら、そういう方たちまで意識を十分に向けることができていませんでした。

私自身、震災当時は自衛隊の方々やボランティアの方々には直接お世話になったこともあり、感謝の気持ちでいっぱいです。しかしもっと大勢いたし、もっと感謝をしなければいけない人たちがたくさんいたことを、今回この施設に訪問して気づきました。

このゾーンに入ると最初に「命を救う」ために行動した方々の当時の記録が展示されていました。消防団、漁業無線局、地元建設業者、自衛隊などなど。地域住民を救うために尽力した方々です。

中でも消防団の話はよく耳にすると思います。消防団は本業を別に持つ一般市民で構成されており、消防署に比べるとより身近で日頃から地域に寄り添い活動をしています。私の叔父も消防団の一員でした。それくらい身近な存在だと思います。

消防団は震災当時、日頃の訓練通り水門を閉めに行ったのだそうです。しかも全ての水門を閉めるまでの時間はとても早かったそう。その迅速な判断と行動力には驚きました。そしてこれで終わりではなく、そのあとは地域住民の避難誘導などを行いました。危険を冒してでも災害の最前線に飛び込み、地域を守るために命を張ったのです。その中には殉職した消防団もいました。消防団というだけで私たちと命の大切さは同じです。そこで命を張って自分を犠牲にしてでも守る行動には感謝してもしきれないものがあります。

陸だけでなく「海」からも人々の命を救うために尽力した方々がいました。私は今回施設を訪問し初めて知りました。

漁業無線とは、漁船の航行や操業の安全を図り、操業能率の向上に寄与する目的で行う無線通信です。 漁場の気象、海象、操業状況を伝え、操業上の打合せなどを行います。

震災当日、釜石漁業無線局は定時放送直後に避難放送を開始したそうです。海上で津波に遭遇する人たちにとっては情報があるとないとでは生死を分けるのです。瞬時に避難放送に切り替えたことで多くの命を救ったのだと思います。

また、電波法違反による処分を覚悟で釜石の惨状を伝えるためにマイクを握った人がいました。震災当日の午後8時半頃、大津波により電話回線が途絶え孤立してしまった釜石市の惨状を誰かに伝えるために、釜石漁業無線局の局長が処分を覚悟しながら世界共通の国際遭難周波数である2,182kHzで通信をしました。本来ならば陸上との通信は違法で、漁業無線は船舶同士で行うのです。

違法な通信でしたが、すぐに応答があったそうです。千葉県の御宿町、茨城県のひたちなか市でした。応答したこの2局も違法になるので処分覚悟なのです。

違法と知りながら処分覚悟で行動する勇気やそれに応える勇気。非常事態でどのような行動が正しいのか。処分されることを恐れず受け入れ、地域住民を守るための行動にはグッとくるものがありました。

遠洋漁業に使用する和文通話表を用い、夜通し避難者500名以上の名前を読み続けたそうです。その夜は、その声を妨げないよう世界中の無線局が通信を控え釜石の通信を見守っていたそうです。

家族は無事なのか、家や町はどうなってしまったのか。多くの人が不安に駆られる中、その夜世界中の方々が見守り続けてくれていたその優しさに、今更ながらとても感謝の気持ちでいっぱいになりました。

被災地でいつ頃から道路を通れるようになったか覚えているでしょうか。

どの場所でもそうだと思いますが、けが人を救助するため、病院へ運ぶためにまず道を拓くことを最優先に行ったと思います。

宮古市では大津波が到達しその波が引いたすぐ後、まだ数10cmほどの津波が来ている中、地元建設業者の方々が集い病院への道を拓く作業を行なっていたそうです。釜石市では夜が明けた12日の朝、地元の建設業者に声をかけて集い坂路をつくったそうです。

みんな辛い思いをしているし、危険だから行きたくないという思いもあったと思います。しかし危険と隣り合わせの中、命を救うために誰かがやらなければいけないことを地元の建設業者の方々は率先して行いました。そのおかげで何人の命が救われたのだろうと考えると、私たちは本当に多くの人々に支えられながら生きているのだと実感します。

などなど、ここに書かせていただいた方々に加え、命を守るために自らの命をかけて行動した方々の記録を見ることができます。

ここでは割愛させていただきますが、その他にも様々な行動記録が教訓として記録されています。ぜひ施設に足を運び直接ご覧になってみてください。

映像資料の持つ力

ゾーン1とゾーン2に映像資料があります。それぞれのテーマに沿ったもので10分程度のものでした。

ゾーン1の映像資料では、大昔から津波は繰り返し起きているという事実。ということはまた同じような大規模な地震・津波は来るということです。その時に二度と同じような悲しいことを繰り返さないために「東日本大震災」から何を学ばなければいけないのか。この施設のテーマである「命を守り、海と大地と共に生きる」ことについて考えることができます。

ゾーン2の映像資料では、震災当日の各地の津波の様子を見ることができます。海の動きと町の様子を記録したものが大きなモニターに映されます。臨場感、迫力がありました。

この映像を見て、津波がすごく怖く感じ、もう二度と経験したくないと久しぶりに心の底から思いました。10年経つと、怖いとはわかってはいるけれど、自分の内側から出てくるぞわぞわした生々しい怖さというものは薄れてきてしまう危機感のようなものを感じました

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2 コメント. Leave new

  • Album 311を拝見しました。ホームページの雰囲気が、明るくて可愛らしいという印象でした。とくに、「知らないことは知ればいいし、忘れたことは思い出せば良い」という一言が私の中に残りました。
    2011年3月11日、私は四国にいたので揺れは感じませんでしたが、テレビを通して状況を知りました。見守ることしかできませんでしたが、強烈に印象に残っています。
    その後、仕事で何度も岩手を訪れる機会を得たので、地元の方から当時の話を聞く機会をいただきました。東北地域に知り合いがいなかった私にとっては、本当に貴重な体験でした。
    2019年に、津波伝承館に立ち寄りました。未来までを意識した構成になっていることが印象に残っています。
    これからも、311の経験を語り継ぐために、このホームページを通していろいろな出会いが生まれるといいなと思いました。
    今年の311は、コロナの影響もあり、オンラインのトークイベントを探しているところです。

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  • コメントありがとうございます!母からよく渡辺さんのお話を聞いております。
    私が中学生の時に学校に来て放射線の授業をしてくださったことも覚えております。その節はありがとうございました。

    何年経っても被災地に足を運んでくださったり、今もこうしてわざわざウェブサイトを閲覧してくださったりと
    10年経っても関係が途切れることなく繋がっていることは、とても素晴らしいことだと思っています。
    震災はとても悲しい出来事でしたが、それだけではなく素晴らしい経験をさせていただいたりや新しい出会いがあったりと
    むしろ10年を通して良いことの方が多かったと感じています。
    当時、そして今も被災地のことを思い、支援してくださっている方々には本当に感謝しかありません。ありがとうございます。

    返信

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